犬の僧帽弁閉鎖不全症をご存知でしょうか。
心臓の左心房と左心室の間にある僧帽弁が変性・肥厚し、正常に閉じなくなることで血液が逆流する疾患です。小型犬の代表的な心臓病であり、進行すると肺に水が溜まる肺水腫(肺水腫:命に関わる緊急事態)へと至ります。
本記事では、犬が僧帽弁閉鎖不全症を発症する原因から、咳・息切れ・失神といった主な症状、診断・薬物療法・手術の治療法、そして毎日の暮らしでできる管理策までを分かりやすく徹底解説します。
犬の僧帽弁閉鎖不全症の受診の目安
- すぐに受診夜間・休日でも
- 呼吸が苦しそう、舌が青紫色(肺水腫の疑い)
- 早めに受診
- 寝ているときの呼吸が1分30回を超える日が続く、咳が増えた
- 治療と見通し
- ステージ分類で治療を決める。心拡大があれば薬で進行を遅らせ、専門施設での手術という選択肢もある
迷ったときは 受診の目安とチェックリスト も確認してください。
1. 犬の僧帽弁閉鎖不全症の概要
僧帽弁閉鎖不全症(Mitral Valve Disease:MVD、または慢性房室弁疾患:CAVD)は、犬の心臓病の中で最も頻度の高い疾患です。全犬心臓病症例の約75〜80%を占めるとされています。
僧帽弁は左心房と左心室の間にある弁で、心臓が収縮するときに完全に閉じることで血液の逆流を防ぎます。この弁の弁尖(弁の葉)が加齢に伴い粘液腫様変性(べたついた変性)によって肥厚・変形すると、収縮時に完全に閉鎖できなくなります。
その結果、心臓が収縮するたびに血液の一部が左心室から左心房へ逆流します。この逆流量が増えるにつれ、心臓は過負荷状態となり、左心房・左心室が拡大します。さらに進行すると肺の毛細血管に圧力がかかり、血液成分が肺胞内に滲み出す肺水腫(肺水腫:重篤な呼吸困難を引き起こす状態)が生じます。
キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル(CKCS)・チワワ・マルチーズ・ポメラニアン・シー・ズーなど小型犬に多く、5歳を超えると発症率が上昇し、10歳以上では多くの小型犬に何らかの弁変性が認められます。
2. 主な症状とサイン:飼い主が気づける変化
僧帽弁閉鎖不全症の症状は、病気のステージ(重症度)によって大きく異なります。初期は無症状のまま進行し、心拡大が進んだ段階で症状が現れます。
| 症状カテゴリ | 具体的な症状・サイン |
|---|---|
| 初期(無症状期) | 心雑音の聴取(動物病院の定期検診で発見)、外見上の変化なし |
| 代償期の症状 | 運動耐性の低下(散歩で疲れやすくなる)、夜間・安静時の乾いた咳、息が少し速い |
| 非代償期の症状 | 安静時でも苦しそうな呼吸、口を開けて呼吸する、失神(一時的に意識を失う)、腹水 |
| 肺水腫(緊急) | 激しい呼吸困難、泡状の分泌物、口唇・歯茎のチアノーゼ(青紫色)、横になれない |
夜中や明け方に繰り返す咳は、横になった体勢で肺への血液うっ滞が増加することで起きます。「ガーガー」という低い咳が続く場合は心臓疾患の可能性を疑い、早期に受診することが大切です。
ACVIM(米国獣医内科学会)のステージ分類
| ステージ | 状態 | 治療方針 |
|---|---|---|
| A | 弁疾患リスクが高い犬種。現在は心雑音なし | 定期的な心臓検診 |
| B1 | 心雑音あり・心拡大なし(無症状) | 6〜12か月ごとの検診 |
| B2 | 心雑音あり・心拡大あり(無症状) | 投薬開始(ピモベンダン) |
| C | 心不全症状あり(咳・呼吸困難など) | 多剤併用療法 |
| D | 標準的投薬に反応しない難治性心不全 | 強化治療・専門施設受診 |
3. 犬の僧帽弁閉鎖不全症の原因
僧帽弁閉鎖不全症の根本的な原因は、加齢に伴う弁の粘液腫様変性(myxomatous mitral valve disease:MMVD)です。以下に主なメカニズムとリスク因子を整理します。
主な発症メカニズム
- 粘液腫様変性(弁変性):弁尖のコラーゲン線維が変性し、グリコサミノグリカン(糖タンパク質の一種)が蓄積することで弁が肥厚・変形します。これにより閉鎖が不完全になります。
- 腱索断裂:弁を支える腱索(けんさく:弁と心室壁をつなぐ糸状の構造)が変性により断裂すると、弁が急激に翻転し、逆流が急増して急性心不全を起こすことがあります。
- 心臓リモデリング:慢性的な容量負荷によって左心房・左心室が拡大します。心室の拡大が弁の形状をさらに悪化させ、悪循環に陥ります。
リスク因子
- 犬種:キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルは特に発症率が高く、若齢でも発症します。チワワ・マルチーズ・ポメラニアン・ダックスフンド・シー・ズーなど小型犬全般でリスクが高いとされています。
- 年齢:5歳以上から発症率が上昇します。10歳以上の小型犬では高頻度で変性が認められます。
- 遺伝的素因:CKCSでは遺伝性の高い疾患であることが証明されており、繁殖犬の心臓検査プログラム(MVD Breeding Protocol)が国際的に推奨されています。
- 体格:小型・中型犬に多い疾患ですが、大型犬では拡張型心筋症が多く、MVDは比較的まれです。
4. 犬の僧帽弁閉鎖不全症の診断と治療法
診断ステップ
聴診による心雑音の確認が最初のステップです。心雑音が聴取された場合は、胸部X線・心臓超音波検査(心エコー)で心臓の大きさ・機能・逆流量を詳細に評価します。
| 検査名 | 目的・確認内容 |
|---|---|
| 聴診 | 心雑音のグレード(1〜6/6)・部位・性質の確認 |
| 胸部X線検査 | 心拡大の程度・肺水腫の有無(VHS値:椎体心臓比で評価) |
| 心エコー検査(心臓超音波) | 逆流量・心室径・心機能(EF値)・腱索の状態の精密評価 |
| 血液検査(NT-proBNP) | 心臓への負荷を示すバイオマーカー。心不全の早期検出に有用 |
| 心電図検査 | 不整脈の有無・種類の確認 |
| 血圧測定 | 高血圧の合併(心臓への追加負荷)の確認 |
治療選択肢
現在、犬の僧帽弁閉鎖不全症に対する薬物療法は2019年のACVIMガイドライン改訂以降、大きく進歩しています。ステージB2以降では投薬が開始されます。
| 治療法・薬剤 | 適応ステージ・目的 | 費用目安 |
|---|---|---|
| ピモベンダン(心臓強化薬) | B2以降。心収縮力を高め、心臓への負荷を軽減する | 月5,000〜15,000円程度 |
| ACE阻害薬(エナラプリル等) | C〜D。血圧低下・心臓への前後負荷を軽減する | 月3,000〜10,000円程度 |
| 利尿薬(フロセミド) | C〜D。肺水腫・腹水の治療。余分な体液を排出する | 月2,000〜8,000円程度 |
| スピロノラクトン | C〜D。カリウム保持性利尿薬。心筋線維化の抑制にも有効 | 月2,000〜6,000円程度 |
| 僧帽弁修復手術 | 専門施設での外科的弁修復。根治的治療で長期延命が期待できる | 80〜150万円程度 |
僧帽弁修復手術(弁形成術)は日本国内でも専門施設で行われており、成功した場合は長期的な生存期間の延長が期待できます。手術の適応条件(ステージ・体重・施設の選択)については循環器専門の獣医師と十分に相談することが大切です。
5. 予防のポイント:飼い主ができること
遺伝的素因の強い疾患であるため完全な一次予防は困難ですが、早期発見と病期進行の遅延に向けた日常管理が有効です。
- 定期的な心臓検診(年1〜2回):聴診だけでは発見できない心拡大をX線・心エコーで評価します。CKCSなどのハイリスク犬種では若齢(2歳)から定期検診が推奨されています。
- 安静時呼吸数の記録:就寝中・安静時の呼吸数(胸郭の動きを1分間数える)を週1回記録します。30回/分を超えたら心不全増悪のサインです。専用のスマートフォンアプリも活用できます。
- 塩分(ナトリウム)制限食:ステージB以降では、心臓サポート用の処方食または低塩分フードへの移行が有効です。塩分過多は体内の水分貯留を促し、心臓への負担を増やします。
- 適度な運動管理:激しい運動や興奮は心臓への負荷を急増させます。緩やかな歩行程度の運動を維持しつつ、息が上がるほどの活動は避けてください。
- ブリーディングプロトコルの遵守:CKCSの繁殖においては、MVD Breeding Protocol(両親が一定年齢まで無症状であることを確認してから繁殖する指針)への準拠が推奨されています。
6. よくある質問(FAQ)
- Q:心雑音と言われましたが、今すぐ薬を飲まなければなりませんか?
- A:心雑音があっても、ステージによって投薬開始のタイミングは異なります。ステージB1(心拡大なし・無症状)の段階では経過観察が基本です。ステージB2(心拡大あり・無症状)以降で投薬(ピモベンダン)の開始が推奨されています。心エコーによる正確なステージ評価が投薬判断の根拠となります。検診の結果について担当医に詳しく確認してください。
- Q:肺水腫とはどういう状態ですか?緊急ですか?
- A:肺水腫は、心不全による肺の毛細血管圧上昇によって血液成分が肺胞(ガス交換を行う肺の最小単位)に滲み出した状態です。呼吸困難・チアノーゼ・泡状の分泌物などが見られます。酸素供給が著しく低下し、短時間で命に関わる状態となるため、これらの症状が見られたらただちに動物病院へ連絡してください。夜間でも緊急対応が必要です。
- Q:薬を飲み始めると一生飲み続けなければなりませんか?
- A:僧帽弁閉鎖不全症の薬物療法は疾患の進行を遅らせるものであり、根治的ではありません。一般的には投薬開始後は生涯継続が基本です。ただし、状態が安定している場合は薬の種類や量の見直しが行われることがあります。投薬の自己中断は急性心不全を引き起こす危険があるため、必ず獣医師の指示に従ってください。
- Q:僧帽弁修復手術は日本でも受けられますか?
- A:はい、日本国内でも複数の専門施設で僧帽弁修復手術(弁形成術)が実施されています。手術費用は80〜150万円程度と高額ですが、成功した場合は長期的な延命効果が期待できます。手術適応には体重・ステージ・施設の条件があるため、循環器専門の獣医師への紹介を主治医に相談してみてください。
- Q:キャバリアを飼っています。何歳から心臓検診を始めるべきですか?
- A:キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルは特に発症率が高く、若齢(2〜3歳)での発症も報告されています。MVD Breeding Protocolでは2.5歳での心臓評価が繁殖犬の基準とされています。ペットとして飼育している場合でも、2〜3歳から年1回の聴診+必要に応じた画像検査が大切です。
- Q:安静時呼吸数はどうやって測りますか?何回以上が危険ですか?
- A:犬が眠っているとき、胸部(または腹部)の上下運動を1分間数えます。正常な安静時呼吸数は一般に20〜30回/分です。30回/分を超える状態が続く場合、または急激に増加した場合は心不全の悪化サインとして担当医に連絡してください。週1回の記録を習慣化することで、変化を早期に発見できます。
7. まとめ
犬の僧帽弁閉鎖不全症は、小型犬に最も多い心臓疾患であり、薬物療法による病期進行の遅延と専門的な手術による根治が選択肢として存在します。定期的な心臓検診・安静時呼吸数の記録・塩分管理によって、無症状期から適切なタイミングで治療を開始することが重症化を防ぐ鍵となります。
異変を感じたら決して放置せず、速やかに動物病院を受診して、愛犬にとって最善の医療的選択を冷静に進めていきましょう。
様子を見ずに、その日のうちに受診してほしいサイン 犬や猫は体調不良を隠す動物です。愛犬に次のどれかが当てはまるときは、この記事の病気に限らず、動物病院に相談してください。
※本記事は医学・科学的知見の一般的知識に基づき作成されています。愛犬の具体的な診断や治療については、必ず動物病院の診察を受けてください。僧帽弁閉鎖不全症の治療ステージ判定・投薬内容・手術適応については循環器を専門とする獣医師への相談を強くお勧めします。
参考文献
この記事の内容に関する主な資料です(英語の資料を含みます)。
- 獣医学の参考書MSD Veterinary Manual「Myxomatous Atrioventricular Valve Degeneration in Dogs and Cats」
- 専門家の指針Keene BW, Atkins CE, Bonagura JD, et al. ACVIM consensus guidelines for the diagnosis and treatment of myxomatous mitral valve disease in dogs. Journal of Veterinary Internal Medicine. 2019;33(3):1127-1140.
- 飼い主向け解説MSD Veterinary Manual「Acquired Heart and Blood Vessel Disorders in Dogs」





